院生になっても「ゆたかに迷う」変わらぬ自分

1986年

2月:大学院入試を受験。英語、漢文・変体仮名の語学科目、美学、日本・東洋美術史、西洋美術史の専門試験を受験。美学の先生から「美学をやろうとしていたのに、随分悪いけど」と苦言を呈されると、水野先生がすかさず「できないから、やめたんでしょ」と一言。救われました。
11月:大学院演習での初めての発表。長岳寺阿弥陀三尊への宋代彫刻の影響を考察するべく、唐末、五代、宋、遼金の彫刻について比較検討するも、そもそも中国史への理解が不足しており、作品もほぼ実見しておらず、グダグダな発表に。水野先生からは「論外」の一言。コメントもなく、院生に向かって「誰か何か言ってやって」と。以降、しばらく研究室から足が遠のく。そうしたところ、12月下旬、栃木・光得寺大日如来像の調査があり、お誘いいただく。

1987年

2月:大浦食堂で水野先生と昼食をご一緒した時、「来年、君はどうする気だ?」と尋ねられ、「できれば進学したいと思っている」と答えると、「誰でも進学できるわけではない」と一言。
3月:背水の陣で、興福寺南円堂四天王への宋代美術の影響を考えるべく、藤末鎌初の忿怒形を集中的に見学。
5月:京都大学で開催された美術史学会の折、大阪市立美術館の「西国三十三所観音霊場の美術展」を見学。南円堂曼荼羅に描かれた四天王が南円堂四天王と異なることが気にかかる。その後、一乗寺本の南円堂曼荼羅(不空羂索観音)に描かれた四天王が中金堂四天王を写したものであることに気付き、水野先生に相談するも「絵空事だろう」とのコメント。しかし、なおも気になり考えていたところ、ふと南円堂四天王のうち持国天の顔が興福寺東金堂維摩像の顔に似ていると思い至る。つまり、中金堂四天王が本来の南円堂四天王で、南円堂四天王は東金堂の像だったのではないかと。これで意を固め、2週間後にせまった大学院演習は四天王交替説で臨むことに。
6月:大学院演習で発表すると、水野先生から「本当かも知れないね」と。それを聞いて「これで食べていけるかも」と。その後、夏休みに、大学からの依2月頼として興福寺中金堂四天王の調査が実現。修論作成にあたっては「循環論にならないように」との指導。
9月:中野正樹先生から正倉院事務所の金工担当の募集情報を聞くも、水野先生が海外出張中だったこともあり、即答はせず。水野先生が帰国された後に相談すると、「これまで君がやってきたことは大したことではないので、工芸でもいいんじゃないか」と。妙に納得し、自治会活動のためにブラックリストに載っていないかが気に掛かるも、心は正倉院事務所に。ちょうどその頃刊行になった『正倉院』3冊本を分割購入することに。

1988年

1月:修士論文提出。その直後、正倉院事務所の話は、9月の段階で断ったと聞かされる。即答しなかったのが悪かったらしい。『正倉院』は高価なインテリアに。
4月:博士後期課程に進学。進学後もパレルゴンⅡでの画廊番は継続。1988年パレルゴンⅡ主宰の酒井信一氏が中心になって企画した大谷地下美術展(1984~89年に開催)第5回展のシンポジウムで司会を務める。奏楽堂の上野公園内への移築にともない、移築先の現場を囲むフェンスが設けられる。真っ白なフェンスをキャンバスにできないかと藝大油画の博士課程の人たちに声をかけて壁画制作プロジェクトを計画し、台東区にかけあうも実現せず。
11月:美術史学会東支部例会で学会デビュー。修論の内容そのままに「興福寺南円堂四天王像と中金堂四天王像について」。東京国立博物館、東京国立文化財研究所の研究員募集にあたり履歴書を出すも連敗。

1989年

8月:兵庫県立歴史博物館の学芸員(仏教絵画)募集に応募するも不採用。