個性「ゆたか」が、個性豊かな人たちに囲まれる

1981年

4月:東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。上石神井の芸大寮に入寮。
男子校から藝大への環境の変化は、あまりに刺激的すぎた。個性豊かな人たちに囲まれ、価値観というか、人間観は揺らぎっぱなし。クラスオリエンテーションで、誘われるままに芸術祭の実行委員に(藝大は美校、音校あわせて1学年450人ほどながら、そのうち80人余りが芸祭委員になる)。個性のない自分にもできそうな会計を担当。美学への思いは熱く、1年生にして美学会の準会員になり、例会などにも参加。この年、藝大ではヴァイオリン事件(教官の贈収賄事件)が問題に。学生集会が開かれ、立て看、個人ビラも。
9月:芸祭が終わると、そのまま次年度芸祭の幹部として実行委員会に残ることに。以降、芸祭漬けの日々。寮でも、1年生の秋に寮祭の実行委員長に指名される。この時、女装も経験。2年にあがる時には寮長に選ばれる。

1982年

2年の秋、芸祭が終わってほっとした矢先、美術学部の自治会長に立候補するよう説得される。大きな似顔絵の立て看が恥ずかしかった。
音楽学部にあった奏楽堂の移建にあわせ、奏楽堂記録委員会が結成されたが、その文献課のヘッドも務める。自治会長、寮長、硬式テニス部のコートキャプテンも合わせ、4役をこなす。

1983年

7月:新宿NSビルにて六美術大学(東京藝大、多摩美、武蔵美、東京造形大、女子美、日大芸術学部)合同展覧会を各大学自治会の主催で開催。藝大自治会長として同展の事務局長を務める。
8月:自分を見つめ直す旅に出る。約3週間、寝袋を抱えて東日本一周。各地の近現代美術の美術館をまわる。この頃から、美や芸術という言葉が特権的な言葉ではないかと思うようになる。藝大で出会った多くの友人に個性とともに凡庸さが共存していることを知り、芸術創作活動と非芸術的ながらも創造的な仕事には本質的な違いがないのではないかと思うようになったのがきっかけ。また、記号論ブームのなか、当時注目されかけていた語用論に関心を抱いたこともあり、美や芸術という言葉がどのような文脈で用いられてきたか、結果、美や芸術という言葉の意味を問い直すことを卒論のテーマにしようと考えるようになった。一方、一時期、新聞社の事業部への就職を目指す。ただし、モラトリアム(猶予)か、大学院に進学し、もう少し勉強をしてからとも考える。
12月:卒論のテーマを発表。担当教員から、それは美学かと問われ、以降、しばらく悶々と暮らす。

1984年

7月:博物館実習を経験。東京国立近代美術館工芸館で、陶磁器は欧米では収蔵庫の棚にそのまま列べて保管するが、日本では風呂敷に包み、桐箱に納めて棚に列べると聞き、日本のしまい方に共感。これがきっかけで、美学ではなく日本美術の研究を志す。
日本美術であれば何でもよいというのが正直な気持ちながら、3次元世界を2次元に描いた絵画よりもモノの存在感をそのまま感じられる彫刻、仏像を研究対象として選ぶことに。そこで、すぐに助手の松田誠一郎氏に相談。仏像を見に行きたいと伝えると、願成就院を勧められる。1人で願成就院に。よくわからないながらも、奈良の仏像にも引けをとらない立派な仏像だと納得。
8月:水野敬三郎先生を訪ね、1年留年し、美学ではなく仏像で卒論を書きたいと申し出る。「2年の古美研の時には熱心に見ていたね。どうぞ」とあっさりお認めいただく。テーマについて、「関西出身ですが、せっかく東京に来ているので、鎌倉彫刻を」と言うと、「鎌倉彫刻のいいのはだいたい関西なんだ」と。無知を恥じ入る。学部4年生になってからだったか、神田の貸し画廊パレルゴンⅡで週1(原則土曜)の画廊番を担当。仏像になってからも継続。
8月:松田さんに誘われ、永青文庫の中国彫刻展に2日通う。
10月:松田さんとともに、大阪市立美術館の中国仏教彫像展に3日通う。
11月:古美研で浄土寺調査に。床下班。松田さん、山岸公基さん主宰のノート研(仏像の調書を作成する勉強会)に参加。週1回、夕方に東京大学仏教青年会の事務所に集まり、展覧会等で公開される仏像、メンバーで調査に行く/行った仏像を順次とりあげ、ノートを作成。以降、5年半継続。これ以降、ひたすら松田さんやノート研のメンバーと仏像を見に行き、実地で仏像の用語、調書の取り方を覚える。

1985年

1日3本の論文を読むことを日課に。3ヶ月ほどで運慶、快慶等、鎌倉前期彫刻の主な論文は目を通す。
12月:卒業論文「慶派の胎動、運慶への系譜」を提出。第1章では、奈良・円成寺大日如来像の高髻の成立事情を明らかにするため、飛鳥時代以来の菩薩形像の髻の形式展開を考察、第2章では、康慶作とされる静岡・瑞林寺地蔵菩薩像の形制について検討し、これが慶派の地蔵菩薩の規範となったことを指摘、第3章では運慶作品の側面観に着目し、様式展開のピークが願成就院像とみられること、康慶作品と運慶作品の様式展開が連動していることを指摘した。