学芸員の仕事はジャパニーズ・ピッツァ」

1989年

11月:大阪市立美術館で学芸員(彫刻担当)募集に応募。1月に採用試験を受けに行くと、他には学部出身者が1人受験しているのみで、2次試験(面接)は1人だけ。帰京して報告すると「これで落ちたら面接だ」とからかわれるも、無事に合格。

1990年

3月:第3回JAWS(日本美術史を専攻する日米の大学院生会議)に参加。多くの友人に巡り会う。同期には、朝賀浩、泉万里、鷹巣純、日高薫、山岸公基、タイモン・スクリーチ、ニコル・ルマニエール、ワツキーら。
4月:大阪市立美術館に彫刻担当の学芸員として勤務。大阪枚方市の実家より通勤することに。最初の1ヶ月は新人研修にオブザーバー参加。
5月:「花の博覧会」記念のサントリー美術館所蔵「花・花・花:サントリー美術館名品展」展が終了し、撤収開始の日。出勤すると、同期入社の朝賀氏と2人だけ。先輩たちは次の特別展のため全員集荷へ。事前連絡はなし。学芸事務補佐の2人がほくそ笑む。恐る恐る展示ケースの鍵箱をもって展示室に・・・。すでに到着されていたサントリー美術館の学芸員の方々の指導のもと、初めての撤収作業に。
8月:大阪・葛井寺千手観音の調査。調査後、藤井寺の寿司屋で食事。盛り上がり、葛井寺に1泊お世話になることに。
10月:茨木歴史館にて大阪市立美術館所蔵中国美術展。中川憲一主任学芸員とともに担当。初めて中国の仏像について本格的に勉強し、山口コレクション中国石仏のうち石窟将来品の解説を担当。ただし、この時、大重薫子主任学芸員から作品解説での安易な言葉遣いを厳しく戒められ、あらためて言葉の大切さを学ぶ。
10月:修士論文をもとに執筆した「興福寺南円堂四天王像と中金堂四天王像について」(『國華』)で第3回国華賞を受賞。授賞式では恩師の水野先生が「素人はこわいと思った」とコメント。
11月:初めて韓国へ。国立中央博物館で開催の特別展「三国時代仏教彫刻」を見学し、慶州では石窟庵、仏国寺などを見学。
12月:国華賞の賞金を使い中国旅行(上海、西安、洛陽、鄭州)。

1991年

4月:造幣局との共催にて「イタリア貨幣・メダル展」を副担当。イタリアからやってきたスタッフのうちロレンツォ・ディレンツォが長期滞在。お好み焼きをジャパニーズ・ピッツァとしてご馳走すると大喜び。その後、美術館連絡協議会に大阪市立美術館スタッフの紹介記事をディレンツォを語って書く。大阪市立美術館の改修計画の立案をなぜか2年目にして担当。大阪市立美術館の歴史を猛勉強し、計画を練り上げる。寄贈等によるコレクションを顕彰するコレクションルーム、大阪市で最も豊富な美術書の蔵書を公開するライブラリーの新設、年に数回しか使わない慶沢園に面したバルコニー付きの特別室を喫茶コーナーとして市民に開放するなど市民目線の改革案。展示スペースが削減されるため、可動壁を増設して日展や全関展にも対応できるよう計画。日展の他会場のデータを集め、床面積、壁面積は平均以上を確保。しかし、学芸会議で承認され、館長への説明でも了解されたこの案は、大阪市建設局との会議の場で館長が突然「日展会場を小さくするのは駄目だ」と翻意したために撤回された。
秋、浅井和春さん監修、NHK、朝日新聞社主催によるクメール彫刻展の大阪市立美術館巡回が決まる。クメール彫刻の勉強を始める。

1992年

4月:「天理秘蔵名品展:民族のいぶき今ここに」を副担当。天理図書館、参考館の所蔵品のうち参考館分を担当。
5月:NHK、朝日新聞社の担当者とカンボジア渡航。プノンペンでは政府のゲストハウスに宿泊。水シャワーのみながら、朝食のフランスパンとフォーが美味。カンボジアはほぼ自家発電。シェムリアップでは銃声も聞こえる。その後、出品リストをまとめるも、具体的な交渉が進まず展覧会は中止に。
10月:四天王寺開創1400年記念特別展「四天王寺と聖徳太子信仰の美術」開催。副担当ながら、初めて仏教美術の展覧会を担当。同展終了後、豪華図録の出版が決まり、展覧会で出品できなかった作品も含め、聖徳太子関連美術の調査研究を行うことになる。
12月:結婚。

1993年

1月:奈良国立博物館から転任のお誘いを受ける。思案の末、大阪市立美術館に残ることとし、1995年度に中国石仏展の企画を決意する。

1994年

3月:江戸時代の本堂厨子に安置される葛井寺御本尊の防災対策として、木製厨子内に耐火式厨子を仕込む工事が行われることになり、それにともない秋から2年近くの間、御本尊を大阪市立美術館でお預かりすることになる。あわせて1995年春に特別公開をさせていただくことに。
6月:長男誕生。

1995年

1月:阪神大震災。葛井寺御本尊は無事。
3月:地下鉄サリン事件。その直後に東京に中国石仏展の出品交渉。
4月:「国宝 葛井寺千手観音」展を主担。葛井寺ご本尊の調査報告書を含むカタログを作成。
10月:特別展「中国の石仏 荘厳なる祈り」を主担。7月後半からは2日に1回ペースで美術館に泊まり込み、48時間周期の生活。約3万人を動員。図録はほぼ完売。

1996年

1月:『聖徳太子信仰の美術』(東方出版)刊行(共著)。聖徳太子像の成立について新見解を思いつく。
4月:神山登館長から蓑豊館長に。開館60周年記念事業の計画を拡大。助役を委員長とし、新聞5社、NHKの各部長クラス、関西経済5団体(関西経済連合会、大阪商工会議所、関西経済同友会、大阪工業会、関西経営者協会)の各専務理事クラス、大阪市PTA協議会、大阪市地域振興会、大阪都市協会、大阪21世紀協会、大阪国際交流センター、大阪市教育振興公社の各役員クラスを委員とする実行委員会を立ち上げる。加えて、企業メセナの対象事業として申請し、寄付の受け入れ体制を作る。国際フォーラムの開催に向け、国際交流基金に助成申請する。こうした体制のもと、事業を進めるべく馬車馬のように働く。事業が終わるまで研究活動はほぼゼロ。
10月:開館60周年記念特別展「美しの日本・崇高の中国」開催。北館1階中央の吹き抜けの展示室を名品とともに憩うサロンルームに。
10月:大阪国際交流センターにおいて、大阪市立美術館開館60周年記念国際フォーラム「美術館の可能性を求めて―市民との共生―」を開催。翌年3月に報告書発行。

1997年

1月:NHK、朝日新聞社から、再びクメール彫刻展開催の打診。パリのグラン・パレ、ワシントンのナショナル・ギャラリーで開催される展覧会の巡回展。ただし、大阪の会期は翌1998年の1月から3月が条件。この時期(2月)は例年日展が開催されているためにその時期の変更が必須であったが、蓑館長に掛けあい、日本書芸院の村上三島氏の賛同を得て日展事務局と交渉したところ、9月開催に変更となり、クメール展の開催が実現。5月下旬にパリ会場視察。
11月:アンコールワット展東京展が開幕。パリ展ならびにワシントン展とは異なる独自のカタログを作成。東京展の展示、撤収作業にも参加。

1998年

1月:アンコールワット展開幕。2ヶ月の会期で約8万人を動員。
4月:大阪市立美術館の所蔵品を紹介するCD-ROMの作成を担当することに。入札の結果、(株)アクティが事業担当に。担当の村上敦子氏、デザイナーの川辺浩一氏の協力のもと、約8ヶ月をかけて『美遊館』を完成。