お昼寝で「あれ」をもらした黒歴史

1962年10月22日生まれ。

当時は大阪大学にほど近い、豊中市永楽荘の東洋紡の社宅に住んでいた。

1967年

4月:設立間もない箕面自由学園幼稚園に入園。運動会の写真を見ると、大玉転がしでペアの女の子を置き去り。覚えているのは、お昼寝でウンチをおもらし。

1967年

9月:西宮市鳴尾の東洋紡社宅に引越。転園した幼稚園の記憶はない。

1967年

11月:福井県敦賀市の東洋紡社宅に引越。敦賀教会幼稚園に転園。イエス・キリストとの初めての出会い。幼稚園の先生に初恋。

1969年

4月:敦賀南小学校に入学。入学時点では、姉の指導の甲斐なく平仮名も覚えておらず、自分の名前さえ読めなかったので、すべての持ち物に富士山マーク。入学後、先生がノートの一行目に書いてくれた手本を見ながら初めて書いた自分の名前は、全行、鏡文字だった。
姉の真似をしてピアノを習う。発表会の舞台も踏む。ただ、ソフトボールの練習にかまけてレッスンはサボり気味。月謝を払おうとした母に「今月は来ていませんよ」と。
運動会のクラス対抗で最下位だった悔しさを記した作文「運動会はビリだった」で先生に褒められる。文章の書き方を初めて知った気がした。
4年生の時だったか、男子3人で料理クラブを結成し、放課後に理科の実験室で焼きめし、揚げドーナツなどを作る。この頃から時々お菓子作りをするように。マーブルケーキやパウンドケーキ、シュークリームも。
敦賀では、夏は海水浴、冬はスキーと運動三昧。その他、常時ソフトボール、卓球、バドミントン、サッカー、そして縄跳び。食欲旺盛で(お好み焼きなら4、5枚、コロッケなら7、8個、巻き寿司なら3本は食べていた)、見た目は肥満児に。

1973年

4月:高槻市沢良木町の東洋紡社宅に引越。大冠小学校に転校。社宅の軟式野球チームに入り、身体を絞る。
9月:枚方市楠葉朝日の新築一戸建てに引越。樟葉南小学校に転校。

1974年

4月転校後ブラブラしていたため、母からリトルリーグか塾に行くよう選択を迫られ、塾を選ぶ。入塾テストの結果、一番下のAクラスに。ただし、1回目のクラス替えで一気に最上位のDクラスに。気が付いたら中学受験することに。この頃が生涯で一番賢かった。6年生の学校のテストはオール100点。この頃の夢は、人工光合成を実現し、ノーベル賞をとること。生意気かつ無邪気だった。

1975年

1月:大阪教育大学付属天王寺中学を受験するも気負いすぎて1次試験で不合格。2月の東大寺学園、3月の洛星の入試では落ち着きを取り戻しともに合格。結果、呉服の仕入れで京都に馴染みのあった祖母の薦めもあり、洛星を選択。

1975年

4月:洛星中学校に入学。硬式テニス部に入部。顧問はたまに顔を出すだけで、コーチもおらず、基本は生徒だけで練習。ただし、先輩が無茶で、素振り1000回におよんだ日も。
1年の文化祭ではクラス展示のリーダーを務める。展示のテーマは「京都の祭り」。その年の祇園祭長刀鉾のお稚児さんのお宅に取材に行ったり、鞍馬の火祭りの松明を譲り受けたり。
2年生の夏休み、地理の宿題を兼ねて、友人と自転車で琵琶湖一周。
3年生では生徒会長に担ぎ上げられる。確か3年生の夏休み、歴史の宿題で京都のお寺20ヶ寺まわる。これがきっかけで、ときどき寺巡りをするようになる。
2、3年生の美術の授業がユニークで、6人を1班とし、2年生では北野神社や一条通商店街、3年生では西陣に取材し、1年かけて6枚の版画と取材記録からなる絵本を作った。西陣では、ピアノ式紋彫機という機械で鍵盤をたたくように緯糸1本ごとの経糸の上げ下げを決めるパンチカードを作る工場をとりあげ、テーマは『西陣のピアニスト』に。約4000字のドキュメントはほぼ一人で書き上げた。